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レガシィで行く週末家出の写真日記

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大山へ2 浜坂加藤文太郎記念館 鳥取

 さらに国道178号を西進、浜坂の加藤文太郎記念館に立ち寄りました。
 旅のお供が六甲山周辺トレッキングの師匠であり、このツーリングの目的も大山登山で、二人とも加藤文太郎のファンとあって立ち寄らないわけには行きませんでした。

  
katobuntarou3.jpg
 知らない方の為に少し紹介しておくと、加藤文太郎は大正から昭和にかけて「不死身の加藤」と呼ばれ活躍した登山家です。今のような登山装備の発達していない時代、パーティーを組んで登攀することが常識であった冬山に、果敢にも単独で挑み数々の記録を残しながらも冬の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死を遂げました。当時の新聞は「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じたそうです。

 かれは神戸の須磨近くに住んでいましたが、六甲山系を縦走した後、宝塚から徒歩で日中に帰宅出来たそうです。文太郎が通ったコースとほぼ近い整備された六甲全山縦走路(須磨?宝塚)でも、私は13時間以上かかりますし、最後はとても歩ける状態ではなくなります。
 浜坂は彼の故郷であり、この記念館では彼の使用した道具や、当時の新聞記事などが展示されています。

katobuntarou2.jpg
 図書館の2階が記念館展示室で、この廊下の奥になります。正面には文太郎のレリーフが飾ってあり、ここでは我々もかなりテンションが上がってしまいました。
 
 ここで師匠と議論になったのは、新田次郎の小説「孤高の人」についてです。
 この小説は実在の加藤文太郎がモデルで、主人公もそのままの名前で出てきます。が、かなり作者なりの味付けがされていて、単独行の加藤が宮村という青年の誘いで初めて無理やりパーティーを組まされ、その青年の行動のせいで北鎌で遭難に至ったことになっています。
 読んだ方ならわかると思いますが小説の中での宮村の悪役ぶりは徹底しています。文太郎が実名で登場し、生い立ちや山行がほぼ事実にもとづいているため、彼を死に追いやったのは宮村のせいだと思い込んでしまう読者もいるそうです。
 加藤が青年とパーティーを組んで同じ北鎌でともに遭難死するのは事実なのですが、青年の名は吉田富久で「単独行」という加藤の手記によれば、彼と組むのは2回目でしかも「私の方から誘惑してしまった。」と書かれており、加藤の方から要請していたのがわかります。
 つまりこの小説は事実と創作がごっちゃになっており、吉田富久という登山家の遺族からすれば不愉快極まりない作品であると思うんです。
 単独行の加藤は、周囲が絶望する中、生還したこともありました。パーティーを組むことで気のゆるみ、とはいかないまでも精神的な変化があり、装備や行程にも変化が出たこと、そしてなによりも山の猛者の想像をも超えた天候状態が遭難の原因であり、これを元にした小説でも十分興味深いと思います。「孤高の人」では、手記から想像できる加藤の考え方や性格などはとてもうまく描かれていると思うので、わざわざ悪役を仕立て上げてほしくなかったなあ、というのが「単独行」を先に読んだ読者の感想ではないでしょうか。
 
 新田次郎は、映画化もされた「八甲田山死の彷徨」でも青森の部隊と、弘前の部隊が冬の八甲田を反対周りに行軍し、結果を競う中、青森隊が遭難し210名中11名しか生還しないというストーリーになっていますが、事実は相手の部隊が行軍してることさえお互い知らなかったのです。しかも、小説には所々当時の遭難報告がそのままのっていたり、各遭難者の遺体発見場所のマップなどがついていて大きな創作があるとは感じさせません。

 「興味深い事件や、事故に大きな創作を加えて小説を書くというのはいかがなもんでしょう・・・。」
と同行者の師匠に聞くと
「司馬遼太郎の歴史小説にも、実在したかどうかわからんようなやつが出てくるしな・・・。」
と。「そうですが遭難者の名誉を傷つけるものはちょっと・・・・・。」で議論は終わりました。

tottori.jpg
国道178号、ここで兵庫から、鳥取に入りました
tottorisakyu.jpg
鳥取砂丘
今回は時間がないので砂丘には登りませんでした。前回は砂丘の向こう側の海岸まで降りたので靴の中が砂だらけになりました。(普通の人は丘の上までしか行きません。)
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